「生成AIの登場と作文の未来」
毎日新聞和歌山支局長・福田 隆
チャットGPTに代表される生成AIが注目を集めている。ネット上などにあふれるデータを活用し、文章やデザインなどを形作るその機能は、さまざまな問題をはらみつつ、可能性に満ちている技術と言えるだろう。
例えば、「毎日新聞和歌山支局はどんな会社ですか」と質問すると、「日本の主要な新聞社である毎日新聞の和歌山県内にある支局です」「和歌山県内の地域ニュース、イベント、社会問題、スポーツ、文化などに関する記事を取材し……」などの文章があっという間に作り出される。期日や場所、目的などを具体的に示して、案内文を作ってほしい、と要望すると、「もちろん」と前置きした上で質問以上の内容を勝手に(想像で?)盛り込んだ案内文に仕上げてくる。間違いも含んでいるが、素案としては申し分ない。パソコンの画面上に、みるみるうちに文章が生み出される光景は、正直、使っていておもしろい。ただ、繰り返しているうちに、なんだか気持ちが悪くなってきた。「読後感」がないからだ。
読後感とは、書いてある内容が頭に残ること。「なんということか」「読んで良かった」「なるほど」という肯定的なものだけでなく、「これはおかしい」などの否定的な感覚も含み、その文章の存在意義とも言える。新聞記事の場合、「刺さる」とも言う。読後感のない記事は、刺さっていない。チャットGPTの場合、形にはなっているため書き手にとっては便利だが、読後感がなければ、読み手からすると目を通すだけ時間の無駄と言える。
前置きが長くなってしまったが、NIE活動の趣旨と重なる取り組みとして「記者による出前授業」がある。私は5月、伏虎義務教育学校(和歌山市)の小学3年生のクラスに招かれ、数回にわたって新聞記事の書き方を紹介した。記者が使う道具、1日の流れ、「質問する時は『なぜ』をたくさん考えるようにしてごらん」「取材が終わったら必ずお礼を言うようにね」「一番ハッとしたことを、見出しにしてみてください」などなど。子どもたちは一生懸命、ノートに取りながら聞いてくれた。質問もたくさん寄せてくれた。
後日、街中を取材し、そのうち1クラス分の壁新聞が送られてきた。1人1人、独自の視点で書き上げられ、大作ぞろいだった。「図書館に本が45万冊!」「和歌山城の景色ばつぐん!」「キーノ大人気」――。見出しになっている。カラフルなイラストも付けられ、伝えたいとの思いがあふれていた。ここに用いられているのは、平易な言葉だ。文章も短い。こなれない表現もある。しかし、自分たちが見たもの、聞いた話、感じたことを、精いっぱい「新聞記事ふうに」書いてきてくれた。手に取った者を「読もう」という気にさせる。
生成AIと何が違うのか。それは、「身体感覚」の有無だと考える。一つ一つの言葉を自らの判断で選び、連ねてみて、推敲し、文章の順番を変え、時には一から書き直す。子どもたちの壁新聞には、消しゴムで消した跡がたくさん残っており、書き手の息づかいが伝わってきた。実は新聞紙面を飾る渾身のルポやコラムも、こうして出来上がっている。筆者と読者の身体感覚から離れぬよう、終わりのない試行錯誤が繰り返され、「締め切り」というゴールがあることでその歩みを止めるだけなのだ。
私は生成AIを受け入れるしかないと考えている。インターネットやスマートフォンがそうだったように、便利で低コストの新技術で助かることが多いのも事実だ。電話や自動車が登場した時も、同じような戸惑いが社会にあったのかも知れない。
いかに生成AIを使いこなすか。今の若者や子どもたちは幼い時からスマホなどに親しんでいるデジタルネイティブだが、言葉の身体感覚は真ん中に置き続けないと、新聞や本離れにとどまらず、「作文」という営み自体を失うことになるのではないか。だからこそ、今の時代、NIEを含む学校での取り組みが極めて重要だ。そんな思いを強めている。
小3児童たちの壁新聞には、後日談がある。私は一人一人に短い手紙で講評を送った。すると今度は児童たちが、お礼の手紙をまとめて、大きな紙に貼り付けて、支局まで届けに来てくれた。その場は即興の「社会科見学」となり、支局のスタッフの紹介、電話やパソコンなどの機器類の説明に目を輝かせていた。子どもたちだけでなく、私にとっても「刺さる」経験となった。