「海外特派員の仕事」
共同通信和歌山支局長 名波正晴
海外特派員というと、どんなイメージをお持ちだろうか。大国の思い渦巻く国際会議の場で首脳に質問を浴びせる、地球規模でうごめく金融マネーを追う、テロの凄惨な現場に立つ…。思い描くのはそんな記者像だろうか。私は記者生活の3分の1近くをアジアと中南米で過ごした。ベトナムの首都ハノイ、メキシコ市、ブラジルのリオデジャネイロの3都市に共同通信社の支局があり、支局長兼記者として現場を飛び回った。
ワシントンやロンドンなど拠点支局を除けば海外支局は日本人記者1人が基本で、これに数人の現地スタッフが働く。一日の始まりは現地紙やニュースのチェックからだ。特派員初任地のハノイ支局では、2人のスタッフがベトナム語の新聞数紙を見出しだけ英語で箇条書きにまとめ、これぞと思うニュースは要約を指示、記事として転電する場合はほぼ全訳をお願いした。政府要人とのアポ取りなどは彼らの人脈、力量の見せ所だった。
私は3つの支局を「パラダイス」と称した。仕事がさして忙しくないから? それもある。突然テレビの画面に現れた首脳の演説を聴いて記事を書き、日本時間の締め切りに追われることはごくまれだった。むしろ、私の任地では日本のプレゼンスが高く、一介の日本人記者でも現地の政府や社会に食い込める余地が十分にあった。現場近くで取材ができ、埋もれたお宝のような人に巡り会える。まさに楽園、天国である。1990年代のベトナムは改革・開放が本格化し経済が躍進を続けた。98年、私はハノイ近郊の農村に暮らす台湾出身の男性と出会った。呉連義さん、当時75歳。「最後の台湾人残留者」と言われた。
フランス領のインドシナ半島には第2次大戦中、日本軍が進駐、ベトナムのほぼ全土が日本統治下にあった。同じ日本の支配下にあった台湾から日本軍の特務機関員として現地入りした台湾人も多く、終戦の時点で300人いたと推定される。しかし、日本の敗戦とともに彼らの運命は暗転。抗日ゲリラの蜂起など混乱のさなか、ベトナムに取り残された日本人は54~61年に計5回に分けて本国への引き揚げがあったが、旧日本統治下の台湾などの出身者ははなから対象外だった。
「日本人として戦地に連れて来られたのに、なぜだ」。無国籍状態に置かれた呉さんは、流ちょうな日本語で当時の苦い胸の内を明かした。社会主義政権下で迫害も受け長らく消息不明だったが、90年代初め、日本政府に対し責任を持って台湾に送還するよう求めたのを機に存在が明るみになり、台湾側で戸籍が確認され里帰りも実現。ただ、ベトナム人の妻子がいたため現地永住を決めた。日本人として戦時中を生き、戦後処理に伴い日本に見捨てられた。諦めがついたと言うものの、彼の胸中には複雑な思いが交錯していた。
「私はね、日本人として誇りを持って生きてきた。恥ずかしいことは決してしなかった」
呉さんの口癖がいまも私の心に去来する。2006年末、彼は農村の自宅で息を引き取った。83歳。インドシナ半島で、戦争に人生を翻弄された最後の台湾人だった。