「物差しとしての新聞」
毎日新聞和歌山支局長・木村哲人
新聞社の職場体験として、大学生や中学生を預かることがあります。取材を経験し、実際に記事を書いてもらうことを主眼に置いていますが、プログラムの合間に、新聞各紙の読み比べをしてもらっています。とりわけ新聞記者を志す大学生には、毎日新聞に対する批評を期待しているのですが、これは簡単ではないようです。
「記事の着眼点はおかしくないか、内容が浅いか深いか、他紙と比べて必要な部分が抜けていないか」。各紙、共通して載せている記事をめぐって、「毎日新聞の記事を批評してみてね」と学生たちに問いかけてみました。ただ、返ってくるのは、私にとって耳障りのいい言葉が多いというのが実感です。私を前にして批判はしにくいのかもしれません。しかし、それ以上に、批判的な目を持って物事を見ることは、学生たちにとって容易ではないということが分かってきました。
私にも心当たりがあります。もう25年以上前のことですが、記者志望だった大学生の私は、全国紙すべてをとる金銭的な余裕がないため、数カ月ごとに購読紙を切り替えていました。
1990年に当時イラクの独裁者だったサダム・フセイン大統領がクウェートへ侵攻したことをきっかけに始まった「湾岸戦争」について、日本の国際協調が「血を流さず、カネだけ出す」姿勢だととらえられ、論争になっていました。
新聞は各社の論調を紙面で展開していました。私が実家に帰った際、戦争を体験し、子どものころに食うや食わずの生活を送った父と、この話になりました。私は、当時購読していた全国紙の論調をそのまま話した記憶があります。それは父の考えとは違うものでした。
数カ月後、再び帰省した私は、父に対して購読を切り替えた別の新聞の論調を、自分の考えのように述べました。それは、父の考えに似たものでしたが、「この前と180度、違うことを言っているなあ」と父は首をかしげました。新聞をただ読むだけで、訳知り顔をする私に、父はどこか危うさを感じていたといいます。
新聞は社会から信頼される存在でなければなりません。それは事実を伝えるということですが、記者だって新聞社だって物事の見方は違います。私が提案したいのは、新聞は何かを考える際の尺度、一つの物差しであって、とりわけ大切な問題に対しては自分で考える習慣を大切にしてほしいということです。
職場体験で新聞の読み比べをした大学生たちに、改めてこう問いかけ直してみました。「君だったら、この記事、どう書く?」。ある男子大学生は「取材をしないと分からないが、僕ならこんな記事をイメージしています」と、語り出しました。この学生は、毎日新聞の記事とは異なる見方を示し、一つ議論が深まりました。